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las vacaciones en la islaverde
こども・・・・
2008年 04月 24日 (木) 21:05 | 編集
こどものように、という表現がどうにも苦手。
気になるのは表現だけで、肝心なのは内容だと思っているのでべつにどうという訳ではないのですけど。

こどもになることを強要されてるような気がして、びくっと身構えるのです。

私はこどもになったつもりで子供の本を読んだことは一度もありません。いつも大人の視線から、大人として楽しめるかどうかだけを考えて読んでいます。(これは、こどもにすすめる本かどうかという視点とは、全くちがいます)私が大人かどうかという議論はおいといて。

最初に多読をやってみようと思った時、児童書を読まずにペーパーバックに行ける方法はないものかと真剣に考えたくらい。
実際に読んでみたら面白かったのですけど。でも所詮子供の本と思っているのは、変わりありません。それを書いてるのは大人なんですけどね。

だから、出てくる感想としては、これは安直な結末だよーとか、子供の本なのに、大人が読んでも十分楽しい、とかそんなのばっかり。子供時代を思い出したこともあったけど、なつかしいなーと大人の視点。

だから、そういうのが普通だとばかり思っていたのだけど。

こどもになるのが嫌な理由は、これまで培ってきた経験や知識を全否定される感じがするからだと思う。分からないところだって、そういう知識を総動員してつなぎつなぎ読み進めているわけで、だからこそ数年足らずで大人の本が読めるようになるのだと思う。(念のため、辞書をひくとかいう意味ではないですよ)

(分からないところを、そういうものもある、分かる時に分かる、とそのままにしておけるのも大人の知恵だし、なんでもかんでも今すぐ分からなきゃいやだーと辞書に走るのは、ないものねだりだよなあ。)

もう、どんどん吸収する力もないし、何回も飽きずに同じ絵本を繰り返し読んだりもできないし、純粋なこどものようにはいかないのだけど。少なくとも私は、もうそんなことがしたい訳ではないと。

でも、やりたいことを好きにできる、という自由度は実際の子供にくらべたら大人の方が恵まれてるのかな。あとは知識と経験でカバー?

うーん「おとなこども式」かな。私の多読は。
多読とUnlearnと文法と
2008年 03月 08日 (土) 22:40 | 編集
辞書の弊害がどうだとか、学校英語のUnleranだとかいう議論は、私にはとっても贅沢な悩みに思えてしょうがないのです。お金があり余ってて、どうやって使えばいいの?って言ってるようにも聞こえる。
本当なんですってば。

だいたい、日本語の一部なんてもう英語になってるようなもんでしょ?コンプライアンスとか、ロジスティクスとか、日本語だというのに知らないって。あ、ロジスティクスは一応は知ってるつもり・・・だけど自信ない。

英語で一から十まで数えろと言われたら、小学生だって(最近は幼稚園児もか!?)言えるだろうし、家はhouseで机はdeskだっていうのも常識、知らなかったらびっくりされる。というか人間扱いされない?

アップルという発音は間違いであぽーと言いましょうとか、ボールペンは和製英語なので英語では通じませんとか、それぞれは正しいんだろうけど、そんな重箱の隅っこをつつくようなことばっかりして、リンゴがアップルだって知ってることが既にすごいことなんだって。
・・・・とみんな気づいたほうがいいんじゃないかなあ。

スペイン語。学生時代に嫌というほどさせられました。卒論もスペイン語で書きました。よく書けたもんだ。

卒業して数年(と少し)、スペイン語とまったく縁のない生活を送りました。

そしたら、一から十までスペイン語で言えなくなってました。
want とcanの違いが分からなくなっていました。スペイン語で言うとpoderとquerer。

さすがにこれはまずいと思い、趣味としてスペイン語をやることにしました。
(そして多読の道へ)

英語と全く縁のない生活をしている人はいっぱいいると思います。それでも一から十まで忘れるとか、信号機の色が言えなくなるとか、絶対ありえない。
日本って本当に英語だらけで、知らないうちに英語漬けにされてるんです。いや、なんで使えないかは別の問題なんだけど、知識量だけは相当なもの。ホントに、なんで使えないのかしらん。

本気でUnlearnしろと言ってんのかーと言いたくなるのはこういう時。
(ま、unleranもlearnもやろうと思ってできるものじゃないですけどね。自然になる、またはならない、のどっちかです。)

そんな根本的なことから忘れてしまったら絵本だって読めないはずなのに、受験英語の弊害だけ忘れるなんて都合のいいこと言ってるなーと毒を吐いてみたり。
こんなに英語に囲まれて生活してんのに、英語と意味が違う和製英語だけUnlearnなんて無理でしょー。

Unlearnにこだわるより、とにかく多読して量で圧倒してしまえば、忘れようが知識として残ってようが、変な知識は負けると思います。量で。アップルがリンゴだというところから始めたら絵本が読めるようになるのはいつになることやら。そういうのはそのまま生かせばいいんじゃないか、と。

とここまで書いて気づいてしまいました。今までは多読と同時に、Unlearnっていう別のことをしましょう、という感じでとらえていましたが、要するに多読をするイコールunlearn、なんだな、きっと。
(気づくの遅すぎ?)

スペイン語、ゼロから始めたい人にはどうしたらいいのか、いまだに悩んでます。リンゴ、ぼく、空、うれしい、泣く、そこからスタートなんです。いや、abcからか?(アーベーセーです)。
Blueという言葉は日本語の青、っていう意味じゃありませんよ、微妙に違うところがあるのです、という話はとっても面白いのだけど、でも寒色系の色の名前って分かるだけストライクゾーンです。スペイン語で、考えたあげく、トラかな?と思われるよりずいぶんマシ。しかもそれは、青いトラって話じゃなかったはずだ・・・(青はazulといいます)。

一応誤解のないように、リンゴをアップルというふうに一対一の訳語で覚える方がいいと言ってる訳では全くありません。そういう知識がもうできてしまってるんだからしょうがないじゃん、くらいの意味です。
Unlearnできるしあわせとでもいうか、曲がりなりにも本が読めるのもunlearnできるおかげ。それさえできないゼロの状態を1に持っていくのがどれほど大変か。

そして文法の話。
せっかく多読に出会ったというのに、ここに至って文法の勉強をしましょう、というのは論外でしょー。文法そのものが好きならやれば、って思うけど、役には立たないなあ、きっと。なんで文法やればスムーズに理解できると思うのかなあ。

英語って文法なんて言ってるけど動詞の活用とか、冠詞とか、消えてるようなものでしょ。文法なんて大そうなものなんてないんじゃないんじゃないかな。少なくとも普通の本を読んでる限りは。

(だから全部暗記してしまおうという人が出てくるとか、却って分かりにくくなってるとか問題もあるんだろうけど。)

Whatの次にdoが来て、あなただからyouで、次に動詞の原型で〜と頭をフル回転させて文章のようなものをつくることはできます。英語なら。
短期の旅行で切符を買ったりする位だったら、それでもいけると思います。それで十分な人は、それだけでもいいし、むしろ手っ取り早いとも思います。

昔はそれがすごく速く、正しくできるようになることが英語ができることだと思ってたなあ・・・(遠い目)

言葉をそういう記号的なものとしてとらえている人は文法的アプローチ、母国語のように外国語を身につけたい人は多読、ということになるのかな。でもおなじ英語、といっても目指しているところは全く違っていて、その違いに気づいていないから無意味な議論が繰り返されている、ような気がします。全くかみ合ってないんですよね。

でも、文法からいく方法は限界があります。言葉は時間とスピードがあるからです。今までの方法では、ペーパーバックだって読めない、ニュースも聞けない、映画なんて夢のまた夢。生の英語のスピード、量は頭の中で文法を組み立てて理解する時間なんて与えてくれないんです。ましてや辞書をひこうだなんてとんでもない。

おまけ。

どうして文法が役に立たないかと思った決定打。
スペイン語の動詞の活用です。
(ちなみに、スペイン語の辞書はどれも、最後の1センチは動詞の活用表です)
これを全部覚えなきゃスペイン語を一言もしゃべれない、しゃべっちゃいけない!?
・・・・・それはおかしい。

スペイン語で同じようにやろうと思ったら、えーと過去未来型の一人称単数で、いやgustarだから三人称か、規則活用だから・・・と延々考えて、辿り着いた文が

Me gustaría comer una manzana. 「リンゴ食べたいなあ」

これは、悲劇です。
いや喜劇か?
辞書をひくことについて
2007年 10月 25日 (木) 21:22 | 編集
いきなりですが、英語のドラマや映画を字幕つきで見続けたら、ヒアリング力が上がって、いつか字幕なしで映画が見れるようになるんでしょうか?

答えは、もちろん「全然ならない。」・・・もしそうだったら私は今頃英語だってスペイン語だって何でも理解できるようになっているはずだー。
なんで理解できるようにならないのかと言うと、字幕があるからそれに頼ってしまって、英語を理解する脳の部分(どこかは知らない)がしっかり働かないからだと思う。
これが、何かの事情で字幕なしの映像を見なきゃいけなくなったとすると、もう、脳がフル回転するのが分かります。(そしてどっぷり疲れる。)もちろん分からないところも沢山あるけど、分かるところを拾い上げて、それをつなげてつじつまを合わせて行く、という機能が働きはじめるような気がします。

だから、字幕なしで映画を観たい人は、字幕なしでとにかく見続けると、そのうち理解できるようになるとは思います。ただ、いかにもしんどそうだし、映画を楽しみたい気持ちもある私はなかなか実践できていないのですが。
英語字幕ならよさそうと考えていましたがある時「読む方に集中してしまって、耳に入った英語を理解する力は上がらない。」と言われ、今はすごく納得しています。

辞書も同じじゃないのか、というのが今の私の考えです。
辞書をひくという行為自体が、ひく回数に関わらず、英語をリアルタイムで理解する力を阻害すると思います。分からなかったら辞書をひけばいいと考えていると、飛ばし読みをしながら理解して行く力は多読前と変わらないはずで、それで多読をしても効果がない、という結論になってしまうのがすごく心配です。
もちろん、多読三原則では辞書をひかないとなっていますが、このくらいだったらひいていい、とか、ある程度読めばいいとか、英和はダメだけど、英英ならいい、とかいろいろあるようで・・・

わたしは上記のどれにも反対です。

本を読んでいて、あーこの単語が分かったならばすっきり理解できるだろうなあと思うことは、たくさんあります。そして辞書をひいたこともあります。そしてすっきり理解できてしまうんです。(使ったのは、なんと、SSSではすっかり悪者の英和辞書だ!理由はいちばん近くにあったから)
なら問題ないじゃん、むしろ役に立ってるじゃん、となりそうですが、やっぱりそれではダメな気が最近するんですよねえ。

その理由は、前にも延々書いたように、その場で分からなきゃ、実戦では使えないーという一言に尽きるのだけど・・・

あと思いつくまま・・・

英和の意味は間違いが多いとか、意味を誤解してしまうからダメとか、辞書をひいてはいけない理由がいろいろ説明されていますが、いまいち説得力に欠けるというか、実際辞書を引いて「分かった!」という経験をしてしまうと、なんで?と思うのは当然と思います。
個人的には、英和の日本語はかなり工夫して書かれているし、英英の英語もすばらしいかと言われると・・・よく分からない説明もけっこうある気が。グーグルイメージだって辞書を禁止された故の非言語コミュニケーションへの逃避か?とまで考えてしまう。意味だって、単語の意味を知りたいだけなら、そこまで間違いはないと思うのです。

でもねー、違うんですよ。言葉っていうのは辞書なんて使う物じゃないんですよー。絶対に。
だって、会話しているときはリアルタイムで事を進めていかないといけないんだから、辞書を引く行為が根本的におかしいと誰もが思うはずで、どうでも良い単語だったらそのままに、会話の重要な言葉だったらそれ何?と聞き返すのが自然な流れだと思います。

本を読んでるときもリアルタイムで理解していかなきゃ、読書ではない、と思うんですよね。辞書を引いてしまったらその時点で、「快読」ではない、「解読」になってしまうような気がします。

辞書っていうのはコミュニケーションとしての言葉とは全然ちがう世界にある物として位置づけておくと辞書の呪縛から逃れられるかなーと考えてみたり。
どれくらい違うかというと、本を読みながら辞書をひいてもいいのか?というのは、本を読みながらコーヒーを飲んだほうがいいのか?という質問と同じくらい関係ない(と信じているのだけど)。
えーと。例えば、「ダビンチコード」を読んだ時、最後の晩餐の絵の説明が出てくるシーンで、私はネットに飛びついて絵の画像を引っ張り出し、ダビンチの伝記やその時代について書かれているサイトを読みあさりましたが、それは、本の理解とは関係ないもので、ムダ知識とまでは言わないけど、個人的な趣味に過ぎないというか。

辞書に書いてある意味は、その言葉の総合的な意味を短くまとめてあるので、その本に出てきた局地的な意味には対応してないから、辞書に書かれた意味を知る事も、また趣味の世界といってもいいかなと。だって、dogを「ワンと鳴く動物」(我ながらひどい文章)と書いてあったとしても、作者が本にdogと書いたなら、他の言葉では置き換えられないから、その言葉を使っているんだと思います。。それは難しい言葉でも同じで、英英辞典の説明の方がふさわしいと作者が思ったなら、そう書くんじゃないかなと。

で、辞書のいる(?)世界っていうのは、言葉そのものを研究している人のところと、あと無理矢理考えてみたら、こんな感じ?

例えば、私がロシア語で書かれた文書を理解しないといけなくなったら、ロシア語の辞書をひきまくって、えーとこのNがひっくり返ったのは〜と一語一語「解読」していくしかないと思います。理解できるかどうか分からないけど、それしか方法がない。
余談で、辞書を引きながら英語を読むのが正しいと思っている人を見かける度に、ロゼッタストーンを解読した学者とイメージが重なってしまう・・・日本人全員の辞書引きパワーを結集させたら線文字Aくらいすぐに解読か!?(いかん、いま読んでいる和書の影響が・・・)

以前酒井先生に『辞書をつかうやり方は「考古学的アプローチ」ですね。」と言ったら「それ絶対書いてね、いつか」と言われたけど先生ご本人はもう覚えてらっしゃらないだろうなあ・・・

だから辞書も違う世界では存在価値があると思うし、辞書を悪者にするんじゃなくて、悪いのは、辞書が何のためにあるのかも理解しようとせず間違った方法で使っている人の方じゃないんでしょうか?

分からないまま読み進めるのはけっこうストレスだし(そうしないと力はつかないのは分かっているけど)、特にレベルの高い本を読み始めるとすべての単語を英語のまま吸収していくのはちょっと無理だとも思います。
ま、私の辞書を引いた例は「ちょっとズル」をしたと自分では位置づけていますが(言い訳か?)そうすることで英語の力がつくとは今はこれっぽっちも考えていないし、本を読んだ瞬間には理解できていなかったからダメだったと思っています。

一般向けの本でこの単語がわからないから本全体が理解できない、っていうのは実はあんまりないような。単語のせいにしているだけで、実は内容が分かっていないという事の方が多い。理解できた、と思っていても、こちらの知識不足で、作者の意図を十分汲み取れていないこともすごく多いはずで。・・・というと私は今まで本をきちんと「理解した」ことがあるのだろうか。うーむ。

所詮、分かるようにしか分からないということでしょうか。あとは努力だ!
多読の効果について
2007年 09月 30日 (日) 10:11 | 編集
どうして、こんなどうでもよさそうなことを延々と書いているのかというと、多読をして、1000万語以上読んで、ここで区切りみたいなものをつけたいなーと思ったから。
いろいろ思っている事や、誤解されそうなことをきっちり書いて、気持ちの整理をして、新たな気持ちで多読の次の段階に行きたい!と強く感じているところで。(だから、あくまで個人的なもので、自分のために書いているというのもあるんです)

これまで、多読をストレスだと感じた事はないけど(本当。全くナシ。)それは自分でそう感じているだけで、周りからみたら「むさぼるように読んでいる」と言われたり、かかった費用、費やした時間など、相当なもの。

それで効果がないとか、多読はだめだとかいうことになったら、どうしてくれよう、ということになりますよねえ。

多読って、楽しめる人にはとてもいい方法だと思うけど、楽しめない人だって沢山いると思います。楽しくないから多読ができないんだーという論理もあり?

楽しめるかどうかなんて、主観的なものにすぎないんだから、お金も体力も時間も相当かかるけど、本が読めるようになる、と言ってはいけないんでしょうか?
英会話学校その他に比べたら費用は安いと思いますが、それでもタダという訳にはいかないし、効果らしい効果は500万語くらい読んだ方がはっきり分かるし、私の場合は英語が怖くなくなったのはつい最近。そして、3000万語くらいまでは読まないとだめかなーと思っているところ。
「楽しいよー」と言われると、なんだか騙されてるように感じる人もいるはず。

英語の本くらい読めるようになりたい、と切実に思っている人には、少々辛くてもどんどん量を読むように言ってあげる方がいいんじゃないかと思ったりもします。今までも、(そしてきっとこれからも)英語でみじめな思いをするくらいなら、児童書やペーパーバックがその人にとってどんなにつまらなかろうが、とにかく数百万語くらい集中して読めばそれなりに力はつくし、それくらいの苦労は、英語ができない苦痛よりは楽ではないのかな?

多読の効果云々の議論も無意味だなーと思います。
よく「100万語読めば英語ができるようになりますか?」と聞かれますが、それは「この壷を買えばしあわせになれるのか?」のと同じ論理で、答えは「その質問は意味がない」。
(さすがにこれを口に出して言った事はないですが・・・)

壷と幸せの関係は本当にうさんくさそうだけど、一般的な英語学習の場合は
問題集をする→単語を覚える→その単語が実際に使えるようになる→英語力アップ!と
いかにも関係ありそうに見えるから、多読の場合もそういう質問が出るのだと思うけど・・・

多読の効果は、これまでに読んだ本そのものだと思います。
絵本だって、実際にアメリカやイギリスの子供が読む「生の」英語が使われているんだから、それを読んだということは、実際に自分の英語力を使って理解したというのと同じ。
(だから私はどうしてもインプットというより、読む事はアウトプットの要素もあると思ってしまう)。
児童書を一冊読んだらその本を読む力はあるということで、ペーパーバックだったら、大人の本が読めたということ。

(いちおう上の問題集のこと。まず単語は覚えられない。すぐ忘れる。実際に英語のなかで出会う確率はものすごく少ない(ない方が多い)。たとえ出会って、意味を奇跡的に覚えていたとしても、その意味では通用しない、かえって理解の妨げになる、と否定しておきます)

だから、100万語読んだらどうなるのか、という質問に対しては「いままで読んだ100万語分が読めたという事ですよ」という答えしかないと思う(なんか飛んできそうだ・・・)。

でも、会話力は?リスニングは?本だけ?(と即つまらなさそうな顔をされる)と聞かれる度に私は「本が読めるようになるということは、英語力の中でそんなに意味がないことなのか?」と心の中でつぶやくのでした。

リスニング力も上がるし、書いたり喋ったりする語彙ももちろん増えるんだけど、それは「おまけ」のようなもので、人によっては全く効果がなかったりするかもしれません。
言葉なんて実際に使う事でしか使えないんだから、本当ならば英語圏に行ってどっぷり英語だけの生活をするのが一番いいと思いますが(でも、そこではみんな英語だから、英語ができるというアドバンテージはなくなるんだよね。感じるのはコンプレックスばかり。)、日本にいながら実際とほぼ近い形でできるのが唯一多読かなあと。あとポッドキャストでニュースを聞いたりもありかな。(でも何回も繰り返して聞くというのは絶対ヘン。聞き流さないと。)

あと、これはつい最近思い始めた事ですが、多読の効果として
「実戦力」というのが大きいかと。

日々新しい文章を読み続けているから、いきなり新しい事を聞いたり、目にしても即理解できる能力、というのが上がっているように感じます。

突き詰めれば語学力ってそれなのかなー。

ハワイの本屋さんで、店員とお客が話している雑談が耳に飛び込んできて、どうも甥へのプレゼントなんだけど、彼はこの作家が好きでどういう本がいいだろうか?という質問に対して、同じ作家でこういうものもあるけど、これはなぜか人気がなくって、あとは〜みたいな内容が分かった。(全部聞き取れたわけじゃないのに分かったというところがミソ。)
私は自分の本を探してたから、それを聞き取ろうとしてた訳ではなく、そういう会話が一瞬だけ耳に飛び込んできた、というのにびっくり。
前は自分に話しかけられたことも聞き返さないと分からない事がたびたびあったなあと。

ま、実戦するまで効果が分からないというのは、人には説明しにくいということには変わりない・・・。
話のつづき
2007年 09月 14日 (金) 22:50 | 編集
Harry Potter and the Prisoner of Azkaban  (UK) (Paper) (3) Harry Potter and the Prisoner of Azkaban (UK) (Paper) (3)
J.K. Rowling (2000/04/01)
Bloomsbury Publishing PLC

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この前の記事、「何のことかよく分かんなかった」というコメント多数頂いております。正直なご意見ありがとうございます・・・。文章としては全然まとまっていないので、いずれ書き直そうかと(いつになることやら)。

読む時間がなくて、3巻、なかなか進んでいません。

この本は多読を始める前に唯一読み切った英語の本です。大昔、お金がなくて暇だらけという時期があったのですが、その時に本屋に行くと翻訳よりこのペーパーバックの方が安かった!そして「いちおう英語を勉強した身としては児童書のハリポタくらい読めなくては恥ずかしいのでは」と、もう、今思うととんでもない事を・・・ま、暇だからというのが大きかったんだろうなあ。

でも多読をしていない人の認識ってこんなもんでしょう。実際には読める人なんていないと思いますが。そういう人たちに児童書って楽しいよ〜と言っても「多読ってすごい!」とは思ってくれないのでは。せっかく唯一(私はそう思っています)効果のある方法なんだから、おお!という本をすいすい読んで、多読の威力を見せつけなくてはもったいない。ペーパーバックでも何でも読めるけど、児童書や絵本が好きだから読んでいる、というのはありだと思いますが・・・。

さてさて。ハリポタ3巻。最初の数ページは辞書を引いたらしく、書き込みが。でもすぐに面倒になって、分からない単語にあとで調べるつもりで印だけがついています。(それもすぐにやめてしまったんですけど。あとはパワーリーディングさ)さて、1200万語読んだ後、その単語たちはどうなったかというと・・・

「やっぱり分からない。」

単語テストだったら、多読前0点、1200万語読んでやっぱり0点。
他の人の体験で、「すごく分かるようになっていました!」という報告を見かけた事があるけど、私の場合は違ったみたい(あくまで単語レベルで見た場合)。
従来の英語観で測ったら「多読なんて全然意味ないじゃん!」と即決なのでしょうが、違うと思います。

前読んだ時は、前も後ろも見る余裕が全然なくて、綱渡りのように、筋を追うのがやっとでした。比喩と現実の区別が読めていなくて、なんでこの動物が突然出てきたんだ?とか、ifやwouldも理解できず、ハリーは○○するはずじゃなかったんだっけ、なんで反対のことをしてるんだ、と混乱。そういうところはばっさり切り捨てながらもなんとか最低のラインで話をつなぎつなぎ、悪い奴が誰か分かり、あのトリックはたぶんああいう仕掛け、とこれだけ分かったから読めた事にしよう・・・と読み終えたのでした。残ったのは、ああ疲れたというのと、妙な達成感・・・とこれでいいのか?という疑問。

さて今。まず疲れるというのがないです。(注!今でも読んでて疲れる本はあります。)寝る前のリラックスタイムなのでしんどい事はしないのです。でもページはけっこう進みます。そして分からないというところがない。ハリーの行動は逐一分かります。どんなところにいるのかというのも分かります。この物(や人)のちょっとした描写がこのシーンにいい雰囲気を出しているなあ、というのもばっちり。(あと、これは英語のシャレだな、翻訳家泣いてるだろうなあとか・・・)再読ということになるので、理解力が上がるのは当然としても、この歴然とした差。分からない単語は以前のままだというのに。

これが力の差ってもんだー。単語力なんて薄っぺらいものでは測れない力だー(わっはっは)。

wouldやif、haveやtake、「知らない」という人はまずいないと思うけど、多読前の私は、その単語を本当に理解していたかは、疑問です。
逆にominous, topple(ほんの一例)等、今も昔もよく分かっていない単語、そんな意味が分かるかどうかは本を読むうえではどうでも良かった・・・

結論;やっぱり単語力なんて無意味だー。
多読と語彙と辞書について。
2007年 09月 03日 (月) 22:11 | 編集
ずっと気になってたけど、なかなか文章にまとまらなかったことを書いてみようと思います。

SSS多読というものに出会って、かれこれ4年半。読んだ語数は約1200万語(最近ペースが落ちている)。絵本などの簡単なレベルからたくさんの本を読み、序々にレベルをあげていくことでペーパーバックが読めるようになるという方法です。
(このレベルを上げていくというのがこの多読法の肝だと思うのですが、なかには簡単な物を沢山読むだけで、英語の力があがる的な説明がしてあるものも見かけます。たぶん言葉足らず、もしくは早とちりだと思うんですが・・・。絵本で得られる英語力は所詮絵本レベルでしょう。もちろん、そういう簡単なレベルで使われている英語は、基本中の基本であり、絶対必要なものであることには変わりありません。)

あ、そんなことが言いたい訳ではなかった・・・。

テーマその1;多読をしたら語彙が増えるのか?

昔々(高校生くらいのときか?)、英語力=知ってる単語の数と思ってた時期がありました。正確に言うと、多読を始めて500万語読むくらいまではそう思っていました。なんというか、知らない単語がなくなること、もしくはそれに近い状態になることが英語の達人なんだ、というイメージ。

でも今は・・・

「知ってる単語の数はまちがいなく増えている(事実)、でもそれが何?」

理由その1:知ってる単語も増える、でも知らない単語ももっと増える。

高い(とされている)レベルの本を読んでいくにつれ、いろんな世界がいろんな表現で語られるようになるわけです。当然です。そういう本を単語レベルで区切ってしまうと、そこはもう知らない単語だらけ。普通にさらっと行けばなんとなく理解できる文も、単語レベルで理解しようとした瞬間に、たちまち暗号と化すのは何故?
それら単語の意味をすべて吸収しようとするのは、永遠に終わらないモグラたたきをしているようなものだと最近強く思うのです。しかもモグラの数はどんどん増える。そういう砂漠でさまようかのムダな努力(語彙を増やそうとすること)はもうやめようと・・・

理由その2;そもそも語彙力なんかいるのか?

極論なのは分かっていますが、はじめて耳にした単語でも、聞いた、もしくは読んだ瞬間に理解できる、そういうことがあり得るならば、べつに前もってなにも知らなくても良い訳です。逆に知ってるはずなのに肝心なときに意味が分からない、もしくは知ってる内容だと文の意味がおかしい、ということもあり得ます。
それなのに、なんで語彙力、語彙力っていうのかなーと。
本っていうのは、暗記してしまっているものでない限り、
「初めて見る文1」「初めて見る文2」「初めて見る文3」・・・・・・「初めて見る文17598」というふうになっているはずで、知らない文だけどその場その場で理解しながら読み進めているはずです。見たことがないから、この本は読めないというのはおかしいと思うはず。
単語も同じじゃないのかなー?その場その場で理解しながら、何度も出てくる単語はその都度微妙に意味が違うからすこしづつ脳内で上書きされていって、その単語の実像に近づいていくというのが、多読の醍醐味じゃないのかなあ。もちろんその場では分からない単語も山のようにあります。でも、英語圏で育った訳ではないし、しょうがないじゃないかー分からないものは分からないんだー。なんでもかんでも思い通りにいかないのが世の中だー。

全然多読のおすすめになってませんが、でも言葉って武器にもなるし、人をそれで区別してしまうし、結構残酷なものだと思う。

私も仕事で英語を使いますが(いつもではない)、この単語一つの意味が分からなかったために(しかもここで書くのがはばかられるような簡単なレベル・・・)しかも飛ばせないキーワードだったために話が通じず、青ざめ、相手から信用できないなあといった眼差しで見られたといった苦い経験があります。(しかも一回ではない)。そりゃー、その言葉は一生忘れないし、意味だって今は完璧ですよ。でも、あの場で出てこなかったという事で、もうダメなわけです。その場で分からなきゃ、意味がない。

でも、どんな文や単語が飛び出してくるか分からない。出来る限り準備はするけれど、それでもすべて網羅するのは絶対無理。
私の場合は大事には至りませんでしたが、至る場合もあるでしょう。とくにプロの場合は致命的なミスで仕事がなくなってしまうかも。

それでもあえていうけど、分からないものはしょうがない(フォローの手段はなにもない)、その場で理解(前もって知っていても知らなくても)、それがすべて。

理由その3;単語ごとに意味なんてあるのか?

SSSの掲示板で私が名言だなあと思っているものに、意味の単位は単語でも文でもない、物語だ!というのがあります。
この単語の意味は?と言われたら全然分からない。日本語もイメージも、〜という感じ、さえも分からない。でも文のなかに出てきたら違和感なく読んでいる。とんでもなく読み違いをしているのかもしれないけど、でも読んでる本人からしたら、楽しんでストーリーを追っているわけで、すっかり理解しているつもり。多読を初めたばかりのころはわからない単語、文、と意識して飛ばしていたけど、いまはどこを理解して、どこを飛ばしているのかさっぱり分からない。よっぽど印象的な難しい言葉は別だけど。上にも書いたけど、単語ごとに意味をとって(訳すという意味ではない)、それをつなげて文を理解する的な方法をとってたら、分かるものも分からないようになりますよー、絶対に。
(でも受験の時はそれが英文理解のすべてであるかのように教えられたなあ。恐ろしいです)

というわけで、乱文ご容赦ください。
つぎのテーマ「辞書とはなに?」・・・体力がつきたので次回となりました・・・
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